歴史古橋

永豊橋(えいほうきょう)


皆さま、ようこそ朱家角へ!橋の欄干に刻まれた文字をご覧ください。「咏風橋(えいふうきょう)」と読めますね。では、なぜ現在は「永豊橋(えいほうきょう)」と呼ばれているのでしょうか?

この橋が初めて建設されたときの名前は「咏風橋」でした。*『珠里小志』*には邵堂の詩「咏風橋詩」が収められています。

「十里の蓮湖の水は、流れを呑み込んで夕虹を架ける。

涼風は三つの湖を夕暮れに渡り、

傾きかけた陽がひとしきりの風を呼ぶ。

漁火は枯れた葦の中にあり、

人家には冷たい楓が寄り添う。

市場の声は遥か彼方に立ち上り、

詩心は煙る雁とともに空に遊ぶ。」

永豊橋は平安橋の南約100メートル、中和橋の北東約400メートルに位置し、朱家角市河を西北から東南方向に跨いで、東湖街と西湖街を結んでいます。

橋は単一スパン・三分割の石梁橋で、全長は20メートル、橋面の石板は6.6メートルもの長さがあり、幅は約55センチメートル、橋全体の幅は1.68メートルほどです。南北にはそれぞれ10段の石段があります。望柱の上部には覆蓮の彫刻が施され、橋の袂には四面に**「暗八仙」**の彫刻がある石柱が残されています(笛子・蒲扇などが彫られています)。これは明代の旧橋の遺構だと考えられています。

橋の両側の橋額には「咏風橋」と刻まれており、右側には「天啓七年建(1627)」の銘文が見えます。明代の初め、この橋は「咏風橋」と呼ばれていましたが、後の多くの府県誌では「永豊橋」と記録されています。おそらく人々が「永遠の豊穣」を願い、この名が定着したのでしょう。

乾隆『重修青浦県志』、光緒『青浦県志』、嘉慶『松江府志』、嘉慶末期の『珠里小志』、民国『青浦県続志』にも記載されています。

永豊橋には悲しい歴史もあります。1937年11月8日、日中戦争中、日本軍の航空機が朱家角を3度目の爆撃。多くの市民が犠牲となり、町の名所旧跡も被害を受けました。その日、硫黄焼夷弾が永豊橋に落ちましたが、幸運にも爆発せず、橋の石板が1枚割れただけで済みました。人々はこの出来事を後世に伝えるため、割れた石板に「紀念石」と刻み、橋の袂に碑として埋めました。碑には「民国二十六年十一月八日」と日付が添えられ、朱家角の人々はこの歴史を今も忘れていません。

永豊橋を渡ると、北岸の西湖街に入ります。ここには金宅、大清郵便局、水橋、数々の古建築が立ち並び、見どころ満載です。


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