皆さま、ようこそ朱家角へ!清代・朱家角の周郁浜が著した『珠里小志』には次のように記されています:
「泰安橋は二十五図北柵にあり、俗称は何家橋。明・万暦十二年(1584年)、里人が建設した。」
また、清代・青浦の陳蒋麟による詩『泰安橋即景』には次のように詠まれています:
「日が落ち、夏の暑さが引き、
池に淡い月光が射す。
市場から歌声が聞こえ、
漁師の笛の音が東の渓谷に響く。
蒲扇は軽やかに暑気を払い、
薄手の夏服が涼風に揺れる。
夕暮れの涼しさの中、ひとり静かに歩けば、
古寺は橋で繋がる。」
ここでいう古寺とは、元末に創建された円津禅院を指します。この寺は1950年代に取り壊され、2000年に再建されました。
泰安橋は、円津禅院東門の前に位置し、東西に朱家角市河の瑚瑎港を跨ぎ、北漕港とつながります。旧称は「何家橋」です。
この橋は明・万暦十二年(1584年)に建設され、橋額には康熙乙丑年(1685年)の楷書が刻まれており、当時の修繕記録が残されています。
単一アーチ石橋で、長さ26.2メートル、欄干内の幅は3.57メートル。橋は高く、石段が急なため、地元では「奈何橋(なにわきょう)」と呼ばれています。
橋全体は青石で造られており、欄干には連錦雲紋の浮彫が施され、「飛雲石」と称される独特の美しさを放ちます。このような装飾は上海地域では極めて珍しいものです。
橋面には幾何学的な模様が刻まれており、滑り止めとしての機能と同時に、美観と吉祥の意味を兼ね備えています。中央の橋心石は方形で、階段の両端には方形の凹みとボルト跡が残っています。かつては珠街閣商会の寄付で鋳鉄の手すりが設置され、急な橋面で歩行者が手すりを握って渡れるようになっていましたが、戦争中に撤去され、今も14組の削り跡が残っています。
橋西端の2本の旗杆石は、かつて木製の柱を挟み、灯籠を吊るして夜間の船の航標や円津禅院の法要の合図として使われていました。
さらに見逃せないのは、石榴(ざくろ)の木が橋の石の隙間から育っていることです。これは、古代の職人が糯米粉と石榴の種を混ぜた漆喰で石を積み上げたためです。「石留(石榴)」の言葉遊びにより、橋の石が長く留まるように願いが込められていました。結果として、たくましい石榴の種は400年以上の時を経て芽吹き、根を張り、橋と一体化した景観を作り出しています。
朱家角を訪れたなら、水郷の風景だけでなく、今も繁盛を続ける百年老舗にもぜひ足を運んでみてください。